作話をしていることに気付いた当事者の私が作話について語る

作話をしていることに気付いた当事者の私が作話について語る

作話とは…有りもしない事実を本当に起きた出来事として思い出す現象の事。簡単に言うと「壮大な勘違い」と私は認識しています。
周囲からすれば勘違いレベルではありません。虚言で周りをひっかきまわして滅茶苦茶にする行動ですから。
でも本人にとっては真実です。だから全く嘘偽りのない済んだ瞳で語れます。余りにも自然に語るために周囲はころっと引っかかるようです。
しかし周囲も学習します、何度も作話を繰り返すと当然「あなたの言うことは信じられません。作話でしょ?」となり、こちらの話をまともには聞いてもらえなくなります。
ある意味無視される存在になるわけです。
作話をしていた当事者(私)は落ち込みます。そしてどんどん自信を失います。
本来なら脳の回復のためにどんどん外に出て、刺激を受けたほうが良いです。でもそれが怖くてできなくなるのです。
「自分で自分が信用できない…。」
周囲が当事者の作話を警戒するのと、自分自身が自分の作話を疑うのとでは、精神的なダメージは違うと思います。
自分を信用できないと、これ以上頑張れないのです。前進できない。外に出られないのですよ。人との交流が怖くなるのですよ。新しい事へのチャレンジも出来るはずがありません。
全てを拒絶します。だって周りを傷つけるし自分も傷つけてしまうから。
「だったら作話をしないように細心の注意を払えばいいのでは?」
そう思うかもしれません。健常者ならそれでいいと思います。でも高次脳機能障害者には「細心の注意を払う」が困難。
ズバリ言うと「細心の注意を払えて、その結果トラブルを起こさない人は障害者ではありません。普通の人です。ちょっとおっちょこちょいなだけ。」
そもそも、自分の中にある記憶が事実とは違っているのだから、気をつけようがありません。
例えば今週末は、家族そろってお台場に遊びに行く予定を立てているとしましょう。
週末がやってきました、うきうきと出発の準備をします。そして「さぁお台場にいこー!」と家族に声を掛けます。
すると家族が言うのです。
「え?何言ってるの?お台場いくなんて誰も言っていないよ?今日はエアコンの掃除をするよって何度も言っていたよね?」
最初からお台場に行く話なんて誰もしていません。それなのになぜか私の頭の中には「週末はお台場にお出かけ。楽しみだなぁ。」という物語が経験した事実として出来上がっているのです。
なぜこのようなことが起こるのか…私が思うに「こうだったらいいな」という欲望が起因していると思われます。

私の作話の特徴1
最初に頭に思い浮かべた欲望で感情のスイッチがONになり、何度も繰り返し頭の中に思い浮かべることで、現実と妄想の区分けが付かなくなる。


また、このようなケースもありました。
ある日の夕方私はとても機嫌が悪かったです。機嫌が悪いというよりも自暴自棄状態。何もかもが嫌になって「もうどうなって言い」と妻に不満を垂れ流していました。
そうなった原因は「朝、仕事関係の人から電話があって酷い事を言われた。」からでした。電話がきっかけで「もう今の仕事はやめてしまおう。」と思いつめていたんですよね。仕事を辞めてスッキリしたかったのです。
でも夕方偶然にメモを読み返して気が付くのです。「あれ?朝の電話の内容が覚えているのと違う」と…。
私がヤサグレる原因となった電話の内容は単なる業務連絡でした。私がイライラする内容は全くありません。
思いました「あれ?なぜこの内容で私は一日中怒っていたのだろう?」と。
そして次の瞬間ゾッとしたのです。「あ!これが作話なんだ…」と。
初めて自分自身の作話に気が付いた瞬間でした。ホッとすると同時にゾッとしました。

私の作話の特徴2
私の作話は記憶の断片を編に繋ぎ合わせて悪い記憶を捏造する傾向がありました。これもまたちょっとした感情がきっかけで脳内に勝手に作られた話なのだと思います。


自分で自分の作話に気付いたときはショックでしたね…
私が思うには「強い感情を抱いたときの記憶の断片が、通常の記憶よりも優先して引き出される傾向がある。」のだと思います。
健常な人なら、感情関係なしに正しく記憶を引き出せると思いますが、私の脳は時々記憶の取り出しを間違えます。その際に優先して取り出されるのが「感情のラベルが付いた記憶」なのだと思います。
それが私の作話の特徴だったのでしょう。