高次脳機能障害からの回復への旅路:私の物語

高次脳機能障害からの回復への旅路:私の物語

私は2019年1月に高次脳機能障害と診断されました。これは私の体験談であり、同じ道を歩む人々に向けた道しるべです。

インフルエンザ脳症からの覚醒

気が付いたらベッドの上でした。
いえ意識はありました。このブログでも何度も伝えていますが、朝起きた直後に布団の中から「今日は仕事を休む」と何度も電話をしていますから。でもその事実を忘れてしまうのです。だから常に「気が付いたら〇〇だった」状態なんです。
これが記憶障害の恐ろしさだと思います。何も思い出せないのです。
ついさっきしたことすらも思い出せない。
記憶障害は少しずつは良くなるのですが、スタートは記憶力がほぼない状況でした。

インフルエンザ脳症と診断された経緯

大学病院にて1か月入院していました。すぐに診断が下りたわけではありません。何の病気で私の記憶力がゼロになっていたのか判断するのが難しかったようです。
インフルエンザ脳症は大人がかかる確率は0.5%ほどだそうです。
ヘルペス脳炎と自己免疫性脳炎の可能性も疑われていたそうです。
話では、何人もの先生が集まって会議をしたとか…。

入院中の日々

入院中は、ステロイドパルスと言って、ひたすらステロイド剤を点滴していました。1日3本だったかなぁ?2本だったかなぁ?
よく覚えていません。深夜も点滴交換しましたよ。
副作用に、幻覚、血糖値の増加や骨の壊死などがあるそうです。
幻覚は見たかもしれません。イマイチ思い出せませんが。
血糖値は爆上がりでした。400以上ありました。血糖値が高すぎて測定器がエラーを起こしたような気もします。
骨の再生が止まる可能性があるそうで、退院後は4か月、間定期的に大学病院で診察を受けました。

入院中の日々

入院中はとても忙しかったです。毎日検査検査検査…検査の無い時はステロイドパルスの点滴です。
ご飯などは普通に食べられますが、糖尿病患者用の食事が出ました。飯の炊き具合が…我慢なりませんでした。
インフルエンザに罹っているので最初は個室です。途中から6人部屋へと移動になりました。
個室は快適…なのですが、それよりも、付き添い人がそばに居られる状況は大事ですね。
身体は不自由なく動けるのだけれど、脳に障害を負っている状態です。付添人がいないと非常に危ないと思います。
外にトイレに出たら自力で部屋に戻れないレベルですから。
でも自覚がないから今までの習慣通りに行動してしまう危険性があります。付添は必須です。

記憶力検査

入院中は毎日記憶の心理検査を行いました。
点数が付けられないほどに記憶力が壊滅的でした。
「りんご」や「すいか」などのカードを見て単語を覚えたような気がします。が、
裏にされて絵を隠されると「なんだったかな?」になるのです。
「自分は記憶力がダメになった」という自覚はありました。
想起かされていたような気もします。だから入院中に必死に記憶力を鍛える練習をしてみました。
「とにかく覚えてみよう。」と覚える練習です。例えば
・食事のメニューの内容
・看護師さんの名前と顔
・人生の振り返りのアウトプット
時間を見つけてはこのようなことをしていました。

退院後の葛藤

入院中は病棟内のお散歩で1時間近く歩き続けたり、看護師さんとコミニュケーションをとったりと
「結構振るうにやれているんじゃないかな?」
なんて考えていました。そのため
「退院語はすぐに仕事の再開ができるだろう」
などと考えていました。でも実際は違っていました。病院はいかに守られた刺激の無い空間なのか。というのを実感しました。

日常生活の困難

自分の家で生活して分かりました。「要見守り」という診断がどういう意味なのか。
「え?要見守り?そんな大げさな。ちゃんと今までと同じように出来るよ」
そう考えていました。でも自分の周囲から見るとそうではなかったようです。
「目を離すととんでもない事をしている。」
「三歩、歩く間に何もかも忘れてしまっている。」
私には障害の自覚がありませんでした。
障害の自覚は頭で理解しているだけではダメです。それは自覚ではありません。
自覚がないと自立ができません。一人で行動させられません。

易疲労との闘い

障害の自覚に乏しい私でしたが、「疲れやすさ」だけは良く理解していました。
日中起き上がっていることができません。眠っても眠っても眠いです。午後は寝てばかりいました。
「そんなに寝てばかりいたら夜に眠れないのでは?」
となりそうですが大丈夫。ガッツリと眠れます。それほどまでに眠い。24時間、寝ていられるような状況でした。
やがて外に散歩に出るようになります。毎日イオンまでお使いです。
でも歩いている最中に疲れてしまうので、途中の公園のベンチで休憩をはさみました。
イオンに到着すると一層疲れます。音と光にあふれているからです。
頭が重くなります。縛り付けられるような感覚になります。過呼吸が始まります。立っていられません。
へたりこむようにベンチで休憩を取る毎日でした。
病気で脳に傷を負うとこのように疲れやすくなります。
体力がどうのこうのと言うよりも、純粋に脳が疲れ果ててしまいます。鍛えようがないです。
運動もたすけにはなるけれど、この段階で運動なんてしたら、倒れます。
熱を出して寝込んでいる人にマラソンをさせますか?させないですよね?
脳に障害を負っている人に無理に運動をさせるのも同じです。

仕事への復帰と挑戦

仕事復帰した直後は地獄を見ました。記憶力が無いというのは辛すぎます。
メモを取って次のページに進むと、その瞬間に今までメモしていた内容を忘れますから。
酷い時にはメモを取っていた事を忘れますから。
仕事の流れに乗れないのです。
…というか
「記憶障害があると時間の流れに乗れません」
常にあるのは
「今この瞬間」
だけです。時間が経過すると同時に「忘れます」
これが記憶障害の恐ろしさだと思います。
あえて別の名前を付けると「時間障害」ですかね。
今と言う時間。目の前にあるものしか処理できない。見えなくなった瞬間に忘れる。
そんな状況ですから、頭を使う仕事は一切できません。
でも私が今まで経験してきた仕事は超頭を使う仕事です。
仕事を再開した時は自分に何が起きているのか理解不能。
大パニックを起こしました。
迫りくる壁に挟まれて絶体絶命。
深い井戸の奥に落ちて絶体絶命。
そんな心境でした。普通の人なら一生経験することのない絶望感でした。

パニックを乗り越えて

絶望の状況を経験した私ですが、今ではどうなのかと言うと「仕事をやれています」
周りの評価も少しずつ変化してきているようです。
元々工夫やアイデア出しをするのが好きなので、いかに障害をカバーしつつ仕事を進めるか。というテーマに取り組んできました。
このブログでも何度もアイデアと実践結果を紹介しています。
記憶障害になってから5年です。障害が少しずつ改善しているのもあるとおもいますが
記憶障害と注意障害をフォローする工夫も洗練されてきています。
今では6つ以上のタスクが降りかかってきても整然とこなせるまでになっています。
ここまで出来たら仕事上の困り事はほぼない。と言えるでしょう。
新しい仕事は馴染むまでに時間がかかりますが、一度回り始めればミスも起こりません。
仕事再開した時は、何も覚えられず、記憶が巻き戻り、ちょっとした音で記憶が消えてしまい、仕事を進められませんでした。
でも今は違います。複数の仕事が来ても平気です。やっとここまで脳が回復できました。

通所リハビリのスタート

通所リハビリを始めた理由と経緯

話は戻ります。リハビリについて語ります。
今はリハビリはしていません。運転再開をした時点で「リハビリ完了」です。なぜかというとリハビリの目的が「運転再開」だったからだと思います。
運転は脳を高度に使います。それができる段階ではリハビリメニューもないと思います。
リハビリは記憶障害をダイレクトに突いてくる内容でした。内容的には「小学生でも楽々」という内容ですが、私には困難極まりない内容でした。
例えば、3つのイラストを覚える。「雪だるま」とか「みかん」とか。
次にイラストを隠します。そこで作業療法士さんに問題を言われます。
「今何のイラストがあった?」
「…なんだったかなぁ?」私は答えられません。絵が見えなくなった瞬間に忘れてしまうからです。酷い有様です。
でも脳波回復します。やがて少しずつ答えられるようになったりするんですよね。不思議です。
最終的には私はリハビリですることが無くなってしまいました。特にPCの入力や計算問題などは帰省の教材では間に合わず、特別にオリジナルで用意したそうです。
リハビリは妻と一緒に通いました。一人では通えません。なぜなら乗り換えができないんですよね。
元気なころは日本中を出歩いていたのですが、脳に障害を負うと電車の乗り換えはできません。というか普通に公共の乗り物を利用するのも困難になりますね。
あとは疲れます。本当に疲れます。電車の中では寝てばかりですが、それでも疲れ果てていました。
易疲労は大敵です。最後の最後まで悩まされました。

仕事の両立の困難

リハビリは平日の日中に行います。普通なら仕事に行っている時間でした。
その時間に「あいうえお」のひらがなとにらめっこをしたりしているのです。虚しさ寂しさを感じました。
「自分は社会から取り残されている」
そう考えるととても悲しかったです。
「ここで何をしているのだろう」
と何度おもったか。
でもリハビリは必要です。仕事を休んでもリハビリをしなければなりません。そもそも仕事になりませんし。
それでも「仕事をやっている自分」というステータスは大事でした。
会社勤めなら「休職」と言う手もあると思いますが、私はサラリーマンではありません。病気をすると何も保証がないのです。
「働かなければならない」と常に焦っていました。でもあせっても何もできないのです。両立なんて無理でした。
仕事量は減らすしかありません。周りには迷惑をかけ続ける結果となりました。
それが5年経った今でも響いています。収入はどんどん減り続けています。
もはや学生のアルバイトの方がたくさんもらえるレベルです。

自立への一歩

記憶障害と注意障害の対策が常に私の課題です。
最初の頃は付箋に覚えておきたい情報を書いてあちこちに貼っていました。
これは即始められます。ある程度なら付箋で事足ります。
が、仕事の管理までも付箋でやろうとすると大変になるようです。
ディスプレイ周りが付箋でうまってしまいます。何がなんだかわけがわからなくなります。
その後いろいろ工夫をして今はこんな感じにまとまっています。
・最初は付箋か裏紙にメモする
・次にPCにてONENOTEにまとめる
・基本的に情報管理はONENOTEを使用する。
・スケジュールはGoogleスプレッドシートで管理。
・ファイルはフォルダに番号を付けて管理。フォルダの番号が記憶の管理番号の役割を果たします。
・フォルダに記憶管理番号を付けたら,ONENOTEやGoogleスプレッドシートに記載する際も記憶管理番号を付ける。
・記憶管理番号は【123】のようにかっこでくくる。別の情報に同じ記憶管理番号はふらない。
・仕事以外でも、就労移行や、千葉リハのスケジュールなど、資料がある情報は必ず記憶管理番号を振る。
・メールは色分け+タグの添付で管理する。色は担当者別。タグは作業別に割り振る。

能力の再発見

こうして工夫をして作業をすると漏れが無くなりますね。
相手が忘れていることをこちらから指摘できるほどに、情報をコントロールできるようになりました。
これではどちらが記憶障害なのかわからないですね。
複雑な作業手順などはONENOTEで画像や手書き入りで管理しています。
ONENOTEは最高の記憶アプリだと思います。
複雑な作業ができるからと言って慢心すると何時ミスを起こすかわかりません。
慢心しないように注意です。でも注意ばかりしてると疲れます。疲れるとミスが増えます。
だから注意しすぎないようにも注意しなければなりません。
ややこしいですが、これが私の障害です。

自由な行動を取り戻す

自由って大事ですね。自由でいられるためにはそれなりの何かを果たしていなければならないと思います。
単に「好きにしていいよ」ではダメ。何かの役割を果たした。何かの報酬を得た。周囲は安定している。
そこまでいけて「自由になってもいいよね?」と思うようになりました。
自転車で遠出をしたり、近場にドライブに出かけてみたり。
障害明けの頃はちょっと外に出て、皆が楽しそうにしていると自分が情けなくなって悲しんでばかりいました。
気晴らしのために散歩に出ているのに、憂鬱になって帰宅ではね…。
そういう虚しさは今はありません。出来ることが増えてきたからだと思います。
出来ることが増えると自分に自信が持てますね。
自信は行動に繋がります。あたらしいチャレンジです。挑戦です。
挑戦が出来ればまた一つ世界が広がります。
今ようやくその段階までたどり着けた気がします。
今まずっと心が縛られていましたが解けてきたようです。
言語化されていませんが、高次脳機能障害の新しい段階に入ったのかもしれませんね。

これから進むべき道

今までの私は「過去の自分を取り戻す」「今までやってきたところに戻る」が目標でした。
最近は変わってきています。
「新しい世界に進む」「新しい挑戦をする」が目標です。
あれだけ戻りたかった今の仕事だけでは物足らなくなりました。
もっともっとできること。自分を活かせる世界があるはずです。
もっともっと広い世界に進んでみたいなぁ。と思えるようになりました。
どうすればそれが実現できるのか?
現時点では制度を模索しています。
なかなか壁は高いです。あれもこれもと調べたり協力を得たりしていますが
「制度」という大きな壁が立ちはだかっています。
何とか乗り越えていきたいです。

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