インフルエンザ脳症で入院しているときに高次脳機能障害と診断を受けました。
今思えば衝撃の事実を告知された瞬間なのですが、その当時はあまり落ち込んだ記憶がありません。(記憶障害だけど、感情を伴う記憶は残ります)
初めて障害の事実を伝えられたとき、私は「ふうん?」といった反応だったと思います。
まったく障害の実感がなかったんですよね。
まさかある日突然自分が高次脳機能障害になるなんて夢にも思いませんし。障害による不便さも全く感じていませんでしたし。
例えば足が折など、見た目でわかる障碍ならスグに実感がわきますよね。
でも見えない脳内で不具合が起きても、痛くもかゆくもなく、実感が全くないので、当時は「自分はそんなにひどいのかな?」と疑いを持つような状況でした。
一応「インフルエンザ脳症」になったというのは、頭では理解してはいました。だから「そりゃ大変な病気だ!主治医の言うことはしっかり聞かなくちゃ!」とは思っていましたけれど…。
主治医の話からインフルエンザに感染した結果、自分の免疫細胞が暴走してサイトカインストームというのを起こし、自分の細胞を傷つけてしまった。というのは理解していました。
【自分が入院している理由を理解している】このように考えられる事が「病識がある」のだと認識していました。でも違っていたようです。
私には病識が無かった。そのように今は結論を出しています。「自分の高次脳機能障害を理解するのは相当難しいんだなぁ」って今は感じています。
今回はその理由に関係するエピソードを書いてみます。
最も病識が無かったの入院中だと思います。高次脳機能障害特有の行動をとっていたなぁって思います。
こんなことがありました。
入院中の平日はかならず心理検査を受けました。本来なら正確を期すために1度受けたら半年は受けてはダメなんですけれど、記憶障害が酷くて何一つ覚えられません。だから毎日同じ心理検査を受けました。
で、案の定何一つ覚えられませんでした。典型的な記憶障害です。
そして、毎回易疲労でグッタリしていました。脳を使うと酸素を大量に消費します。エネルギーを大量に消費します。
その結果「ハァハァ」と全力疾走直後のような息切れ状態となりグッタリ。椅子に座る事すら辛い状態になるのでした。毎回。
仕事仲間は私を心配して「毎日電話で状況報告をすること!」と言ってくれました。だから毎日電話をかけました。
不思議です。電話でも心理検査のように「ハァハァ」と全力疾走状態になるのです。正直とても辛かったです。
でも電話は掛けたいんですよね。やっぱり寂しいんです。世の中から見放されるような気がして。執念で電話をかけていました。
仕事仲間との電話では息切れだけではありません。
なぜかとても悲しくなりました。その理由がわからない。寂しいのか、後悔しているのか、うれし涙なのか…???
全然理由がわからないのになぜか泣けてくるんですよね。入院したての頃は電話で毎回泣いていました。
感情失禁てやつですね。
私は漫画を読むのが大好きでした。だから入院中も読もうと思い、妻に週刊少年マガジンを買ってもらいました。
でも最初の1ページ目を目にしただけで「ハァハァ…」これまたグッタリ。強烈なめまいに襲われて寝込んでしまいました。
心理検査や電話よりも漫画の1ページ目がはるかにきつかったです。
目から入る情報に圧倒的に弱くなっていたのでしょうか?でもテレビは全く疲れませんでした。すごく不思議!!!
また泣いています。今度はうれし泣きです。リハビリ中での話です。
一時期「自分は不治の病だ」と思い込んでいた時期がありました。
主治医から「体の中に異物が出来ても、自分の免疫が脳を攻撃するような現象が起こりえる」と聞いたからです。
異物と聞いて真っ先に頭に浮かんだのが「癌」でした。高次脳になって頭がぼんやりしていても、こういう悪いことを考えるときだけは、頭の回転が速くなったようです。
あまりにも思いつめてしまったので、全身CTを撮って体内に異物が無いことを証明してもらいました。その時は本当にうれしかったです。脳に傷がついているのも結構やばい状態なのですが「さらに癌も見つかりました」ではねぇ…辛すぎます。
その時は人前でうれし泣きをしていました。これは感情失禁です。私は泣くということが無かったので自分でもびっくりですよ。
大学病院では心理検査を毎日受けました。検査内容は毎回同じです。
心理検査担当の先生が同じジェスチャーで、同じ動作、同じ口調での自己紹介から始まります。そこまで徹底して同じなんです。
しかしそこが記憶障害の悲しさ。
検査の内容どころか、心理検査の先生の顔と名前すら覚えられませんでした!
退院する時点になってもです!あああああああ…(涙)
1か月間毎日顔を突き合わせて、同じ自己紹介を受けているのにですよ?これが記憶障害の恐ろしさ(涙)
もともと大人しい性格な私。入院中は人の迷惑にならないように気を付けていました。看護師さんと廊下ですれ違う時はご挨拶。(名前を呼んで当てっこをしていました。看護師さんはわざとネームプレートを裏返しにしています。)
「騒いだから拘束します」という同意書には妻がサインしていたようですが、騒ぎとは一切無縁で平和な入院生活でした。
「絶対に病院スタッフの迷惑になるようなことはしない!患者の見本になろう!」そんなことを考えていました。
ある意味、規律正しく過ごす!という方向に振り切ってしまっていたのかもしれません。その弊害が出たこともありました。
例えば…
こうしてみると、主に騒音。そして不正な行動に関係する出来事が我慢ならないようでした。
あまりにもひどい時は深夜でもナースステーションに注意するよう伝えに行きました。
完全に融通が利かなくなっていました。これも高次脳機能障害の症状の一つなんですよね…。
過ちを許せない。絶対に正さなくてはならない。正さないのは罪だ。
入院中はそういう考え方にとらわれていました。
「エスカレートすると怖いなぁ」って思いますが、私にとっては暴力行為もNGなんです。
そのため【管理者に報告をしてルールを守らせる】という方向に進んだようです。
このブログでは何回か登場する「病院食の献立」。
これは自分の障害を自覚したショッキングな出来事なので、脳に鮮明に刻まれているようです。
入院中は検査以外は退屈。本はめまいがするから読めない。テレビはお金がかかる。だから時間があるときは、よく散歩をしていました。
散歩の際に立ち寄るのが食堂です。食堂には1週間分の献立が掲示してあります。
私は毎回必ず献立を眺めていました。「次の食事は何かな?」と…
でも、掲示されているメニューは一般食なんですよね。私が食べていたのは「糖尿病」食だったんです。
献立が全く違うんですよ。でも、それに気が付けないんですよ。ありえないですよね。
「あれ?これ食べたかなぁ…」
献立表を見るたびに毎回不思議に感じていました。つじつまが合わないよううな気がするんです。現実は全くあっていないんだけれど、「あっていないような気がする」レベルで疑問に感じているんです。
でも「やっぱり食べたのかな?食べたような気もするなぁ…?」でしたからね。酷い話です。
以上の例に挙げた通り、入院中の段階で
と、後々千葉リハで言い渡される診断の症状がモロに出ているんですよね。それでも「自分は脳に障害を負った障碍者である」という認識は全くありませんでした。
そのため退院したらすぐにでも仕事を再開できると信じていました。
大学病院の先生からは「今の仕事は高次脳の人ができる仕事ではない」と言われてたそうですが、「そんなことはない!絶対に仕事を再開する!」と心に誓っていました。
…そうです。これこそが病識の欠如というやつですね。
そもそも自分に障害があるなんて全く考えていませんでしたから。
それどころか退院時に、入院中の心理検査の結果「要見守り判定」と言い渡されても「大丈夫。仕事は再開できる。かならず元通りに活躍できる。」と、自分の回復を1mmも疑っていませんでした。
その後私は中断した仕事を再開しようとします。その時にとてつもなく大きな山にぶつかることになります。
この時に初めて「自分はもうダメになった」と実感するわけです。人生最大級の大津波に襲われる瞬間です。
高次脳機能障害にとって一番怖いのは、退院後に元いた世界の続きをしようとした瞬間なのだと思いました。
頭では理解してます。自分が高次脳機能障害になったのを。
私にはこれだけの障害があると診断されています。
当然、頭では理解しています。入院中から理解しています。脳に障害が起きたのだと。
でも頭で認識するだけではダメなようです。本当の意味では受けれてはいないのだ。と身をもって経験しました。
自分の器が入れ替わってしまったのを認めるには、実際に壊れた部分を経験して、苦しんで、もんどりうって、もがき続けて、絶望して、発狂寸前になって…を乗り越えないと…
なのかなぁ?って思いました。
もちろん個人差はあると思います。私のような性格の場合は、実際に痛い目を見まくって、のたうち回らないと障害を受け入れられないようです。
そんな流れなのかなぁ?って今思っています。
運転再開が認められるほどに、障害を受け入れるのに要した時間は1年でした。
入院当時から常に「自分には病識がある」と考えてきました。それでも病識は無かったようです。
確かに「今振り返るとその通りだよなぁ」と納得しています。病識を持つのって難しいです。